2020年(令和2年)の1月25日で、満60歳の還暦を迎えた。
1960年、東京の三軒茶屋産婦人科で生まれ、2歳で三軒茶屋幼稚園に混ぜていただき、2歳半で山形市へ。
千歳幼稚園、山形市立第四小学校、山形市立第一中学校、山形南高校を卒業し、東海大学へ進む。
千歳幼稚園では、聖書や賛美歌に触れ、小学校では器楽部でコルネットを吹き、中学校では剣道部で生涯の仲間達と出会う。
高校では応援団で各部を盛り上げ、合わせて「季節風」というバンドでコンサートを数回開催した。
大学時代は相模大野に住み、新宿と小田急線沿線をフィールドとし、青春を謳歌する。
鹿野道彦自民党青年局長の下、本部学生部でアルバイト多数。
卒業と同時に、山形県経済農業共同連合会(経済連)に進み、最初の2年間は置賜地区の農協担当で、高畠町糠の目の置賜事業所を拠点に肥料と農薬を販売していた。
その後、山形市の本所勤務、自動車燃料部の受渡しと経理を担当していた。
24歳で結婚し、25歳で父親となる。
翌1986年、26歳の時に、父が山形市長選挙へ自民党公認として初めて立候補。
経済連を退職し、父の秘書となる。
4年後の1990年、父は保守系無所属として、山形市長選挙へ再チャレンジし落選。
その1週間後、「ケーブルテレビ会社」を作るために、山形デザイン専門学校の加藤隆巳校長と「ケーブルテレビ山形」設立準備委員会を立ち上げる。
これまでの60年の人生のちょうど半分の30歳の時である。
その後の30年間は、ケーブルテレビ山形、バーチャルシティやまがた、ムービーオン、東北ケーブルテレビネットワーク、岩手ケーブルテレビジョン、YMF山形国際ムービーフェスティバル、コミュニティーデータセンター、モンテディオ山形、パスラボ、全日本プロレスイノベーション、東海大山形高校などの設立や運営に没頭した。
誕生日が、自分と2日違いの1月27日生まれの笹原美喜夫氏と一緒に、誕生日を様々な方から祝ってもらう。
当日、会社に行くと、ダイバーシティメディアとムービーオンの秘書室スタッフである、桜井、松田、後藤、高橋、則子の各氏より、プレゼントをいただく。
その他にも、岩手ケーブルテレビジョンの皆さんや、友人知人の方々からお花をいただく。
村松さんありがとうございます。
ネットで購入したという「赤いちゃんちゃんこ」も用意して下さった。
かなり抵抗はあったが、せっかくご手配頂いたので、二人で着せてもらう。
パセオでは、本野社長のご家族から、赤い薔薇の花やプレゼント、胡蝶蘭にケーキとマグナムシャンパンをいただく。
ダイバーシティメディアグループの局部長の皆さんから、毎年であるが今年も祝ってもらう。
心から感謝である。
フェイスのスタッフの皆さん、友人知人の皆さんから、プレゼントをいただく。
こんなに、多くの方々から祝意を賜り、心より、厚く御礼申し上げる。
菜葉菜からも、素敵なマフラーが届いた。
心から感謝である。
改めて、笹原氏も感激していた。
やはり還暦。
誕生日を迎え、例年以上に思うところがある。
振り返ると、我が人生、多くの方々との出会いで彩られてきた。
良いことも悪いことも、楽しいことも悲しいこともあったと思う。
失敗や別れも数多く経験したが、いつも希望が目の前にあった。
チャンスをくださった方々、そして共に歩んでくれた仲間たち、そして家族に、衷心より感謝と御礼を申し上げる。
人生が不幸な人は、人や社会を批判し悪口を言うだけで、それは、不幸の循環なのである。
しかし、幸福な人生には、人が集い、喜びや希望が連鎖して感動を呼ぶ。
多くの幸福な人たちに囲まれて歩んでこれたお陰である。
そして、その集いは、より価値ある物語が生まれる。
オープン・イノベーションである。
オープン・アウフヘーベンである。
還暦は、改めてスタートラインに立ったと思っている。
まだまだ、自分たちが住む「ここ」こそが、世界の中心であるという誇りと自意識を持って、質の高い価値を創出していきたいと思う。
多くの方々に心より感謝申し上げる。
そして、「約束の地」に向かってリスタートである。