年末年始は、紅白歌合戦や歌番組など、テレビからは沢山の音楽が溢れ出てくる。
外はしんしんと降る雪。
様々な思い出が蘇る。
山形に生まれ、多くの音楽シーンを作ってきた多勢正隆さん。
昨年の11月27日に帰らぬ人となった。
火葬の時にお会いした、多勢さんのご子息。
お母さんとお店をされていると聞き、伺おうと思ってコロナもあって1年後になってしまった。
12月のある日、ダイバーシティメディアの「ママを訪ねて三千軒」の國井ディレクターと共に、「DEPO-ZITTO」に伺ったのである。
今から50年も前の1970年頃の話。
当時はグループサウンズ・ロカベリー全盛の時代で、山形出身の多勢正隆そんはガリバーズを立ち上げ、ショーケンのテンプターズ、沢田研二のタイガース、堺正章のスパイダーズなどと共に、日本中から注目を浴びていた。
多勢正隆さんことマーボーは、東京での音楽活動を終え、故郷の山形で、1990年に伝説のライブハウス「ヒットパレード」をオープンする。
ガリバーズのデビュー曲は、「赤毛のメリー」
なんと、マネージャーは、まだ大学生だった宇崎竜童さんだったのだ。
マーボーの矢沢永吉やキャロル、クールスのロックンロールや「青い瞳のステラ」などのバラードは、あっという間にお客さんの心を鷲掴みにしていた。
MIYAKOママと話していたところに、SNSの仕事から帰ってきたご長男の隆太君。
歌ってもらった。
マーボーとは全く違う、とても綺麗なソプラノであった。
しかし、やはり圧倒的に歌が上手い。
歌うセンスが自分達とはまるで違うのだ。
そんな2021年の師走の様子を、マーボーは天国から、笑みを浮かべて覗いているに違いない。
今年も「DEPO-ZITTO」に伺って、「青い瞳のステラ」を歌いたい〜そんな事を思う、2022年の新春であったのである。