先日、県議会議員をしている弟の県政報告会を覗いた。
県議会議員選挙で、合わせて6回当選した父。
4期目が終わった時、父は山形市長選挙に立候補した。
その後、3回続けて立候補したが落選し、また県議会議員選挙に戻る。
その選挙では、山形県政初の24000票を超える得票を得たのである。
合わせて6回当選し、全てトップ当選だった。
本人は県議会議員で終わるつもりでいた。
しかし、相手候補の山形市政が大混乱したのである。
市役所の市長室での現金の受け渡し容疑により、当時の秘書課長が山形県警に逮捕され、父と選挙で戦った市長が突然辞任という異常事態となり、父に4度目となる市長選出馬の要請が来たのである。
その結果、父は、山形市長選挙で大差で当選を果たし、69歳という遅咲きの市長が誕生したのである。
多くの良識ある方々と共に、山形市政の職員の逮捕に端を発した暗雲に、終止符を打ったのであった。
その父は、その後3年半で、現職のまま他界する。
中心商店街の松坂屋百貨店が立ち行かなくなった時、当時の高橋和夫山形県知事と財政出動をし、松坂屋百貨店のフロアを県と市でシェアをした。
民間も協力した記憶があり、官民一体となって支えたのである。
それによって、松坂屋はナナビーンズと名前を変えて生き続け、その周辺の個店も経営を続けられたのである。
町づくりをはじめ、農業や教育、地場産業と中心市街地の活性化などに力を注ぎ、山形市を誰よりも知っていた分だけ、誰よりも手が届いたのであった。
座右の銘の「分甘共苦」は大野伴睦先生、「一志如鉄」は福田赳夫先生からいただいた言葉である。
父が亡くなった時、弟は29歳、自分は42歳であった。
あっという間の17年。
時代は、平成から新しい年号の時代に変わろうとしている。父の同級生や、父の講演会の方々が、今もってご健在なのである。
思わず嬉しくなった。
その方々へ、父を投影せずにはいられない。
生きている時は、反発もあり、同時に照れ臭さもあり、父の存在は自分にとって何だったのか、良く分からなかったと思う。
すべてを知っていたような一体感もあったが、実は客観的にはキチンと評価していなかったのかもしれない。
依存と自立のアンビバレンスの中、様々な葛藤もあった。
今想うに、やはり父は魅力的な人であった。
吉村家の葬儀に4200人、山形市民葬に1300人が弔問に訪れてくださる。
亡くなった時に、その人の生きてきた評価が決まると思う。
評価は自分でするのではないのである。
ジョン・F・ケネディは、戦争ではなく平和を説き、支配ではなく自由を説き、差別ではなく平等を説いた。
政治とは何か?
主権在民とは何か?
平成最後の統一地方選挙。
もう一度、原点に立ち返る時なのかもしれない。