2011年3月11日の午後2時46分。
旧ケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)の3階応接室にいた。
当時の経営企画室(現秘書室)の斉藤健室長と打ち合わせをしていたのだと記憶している。
「アッ、地震だ!揺れが大きいな!」と、企画室のカウンター前に出る。
そこに当時の高橋文夫社長も「大きいなァ」と、出てくる。
三沢朋花現秘書室長が、当時は臨月近かったので、「床に座って!」と言ったような気がする!
2回目の大きな揺れが収まり、みんな社員を社屋の前の駐車場に避難させる。
そして、制作部や技術システム部は、放送機器の点検に入り、部長級以上は会社で対策本部を設置して、情報収集にあたる。
そして、自分は、ムービーオンへ。
まさか?
そういえば、母親は仙台市に今日は行くと言っていた。
どうしているのか?
女川町出島の母の実家は?
など、分からない不安を抱えて、ムービーオンへ。
この日、岩手ケーブルテレビジョンの笹原美喜夫社長(現ダイバーシティメディア専務)は、東京にいた。
ムービーオンは停電で、システムはすべて動かず。
お客様は、無事に誘導して混乱もなくお返ししたとのこと。
しかし、自動ドアだし、いつ電気が通るか?
結局、幹部職員が泊まることになる。
自家発電装置で、かろうじて電気をつけていた。
山形県庁は、対策に追われていた。
吉村美栄子知事も、凄まじい対応に追われていた。
母親は仙台市から戻らず。
きっと、彼女のことだから、ちゃんと寒さを凌いでいると、避難所に逃げ込んでいると、信じていた。
弟の家族は、みんな自分の家に来て、夕食をとった。
前代未聞の史上最大の地震であることが報じられていた。
停電が復旧して、すぐケーブルテレビ山形の市民チャンネルは、24時間、不定期に生放送を開始した。
ここから数ヶ月続けた。
弟の事務所メンバーや、ケーブルテレビ山形のスタッフは、オニギリを持ち、宮城県の避難所に向かった。
宮城県女川町出島の、母の実家が全滅した写メールが届いた。
みんな命は無事だったが、実家は全壊。
仙台市から、幸いにも戻った母親は、かなり落ち込んでいた。
次第にわかってくる全容。
この日、岩手ケーブルテレビジョンの笹原美喜夫社長(現ダイバーシティメディア専務)は、東京にいた。
東京駅は、こんな状況であり、みんな泊まり込む。
彼は、羽田空港まで歩き、翌日、青森空港に落ちた。
しかし、何よりも、多くの人の心を凍らせた悲しみは、まだまだ残っている。
たぶん、いつまでも忘れられないし、忘れないだろう!
その数日後、さらなる大事故…福島第一原子力発電所の1号機から3号機まで、すべてメルトダウンという、人類未曾有の最大の悲劇が幕を開けるのである。