現職の山形市長であった父・和夫が、市長のまま亡くなったのが、2003年の8月20日の未明であった。
自分の祖父・萬五郎は、山形警察署長や消防長などの任務につき、戦後の混乱期の山形県の秩序を守った人である。
しかし、父が中学2年生の時に病で亡くなる。
祖母うたは、女手ひとつで、2人の息子と4人の娘を、山形市の七日町の借家で育てたのである。
父の兄・敏夫は、享年96歳で、昨年天に召された。
山形県の総務部長、教育長、出納長を歴任し、父・和夫の10歳歳上。
やんちゃな山形南高校初代応援団長だった父・和夫を、しっかり導いてくれた。
その、伯父の敏夫の息子が、東京大学卒で弁護士となる和彦。
その和彦は40半ばで亡くなり、伯父や伯母、そして妻子は、とても辛い日々を送った。
その妻・美栄子が十数年後、山形県を率いる山形県知事になるとは、誰も思ってもいなかっただろう。
とても真っ直ぐで、明るく、頭が良く、賢い女性であったのは周知の事実であったが、まさか、今の立場になろうとは、縁や繋がりは、とても不思議である。
父・和夫は、奨学金をもらい、山形大学に進む。
山形新聞社の相馬元会長や、亀松閣の先代の笹原氏などは、山形大学の同級生であった。
その後、前農林水産大臣の鹿野道彦氏の父・鹿野彦吉先生へ仕え、第1秘書として、東京と山形を行ったり来たりしていた。
そして、17年後、山形県立山形南高校卒業生では、初の山形県議会議員となる。
父39歳の時であった。
その後、山形県議会で4期連続トップ当選を果たし、当時革新市長だった金沢忠雄市長の6期目に、「24年は長過ぎる!」とのキャッチコピーで、戦いを挑んだのであった。
当時の父親は、山形県自由民主党県連副会長。
幹事長である竹下登先生は、「さあ、交代の時が来た!」と、チャーチルの言葉を使い訴えた。
右から2人目は、米沢市の遠藤武彦衆議院議員。
左から2人目は、当時の自由民主党の青年局長の鹿野道彦氏。
福田派の清和会のプリンスと呼ばれ、当時の青年局次長は麻生太郎元総理である。
数年後、山形市議会議長になる中村幸雄氏の顔も見える。
父の秘書であった彼は、父の弟分であった。
福田派の清和会の応援は凄かった。
鹿野道彦先生は、将来の総理候補で福田派のプリンス。
まだ、石原慎太郎氏や小泉元首相は、あまり知られていない頃、やはり安倍晋太郎氏は、鹿野道彦先生や父和夫を、本気で応援してくれた。
現総理大臣・安倍晋三氏の父親である。
父の後ろには鹿野道彦先生、左側には、山形県の自由民主党の重鎮・沼沢善栄県議の姿が見える。
マイクを握っているのは、上町の高橋庄左衛門市議。
右には、父の尊敬していた、県議会議員から国政へ進んだ近岡利一郎衆議院議員の姿が見える。
竹下登幹事長は、好敵手の安倍晋太郎氏が亡くなり、総理への道のど真ん中を進むのであった。
後の、扇千景国土交通大臣。
自分の父と母と、とても仲が良く、母・静子は、扇千景講演会の「扇友会」の会長であった。
ヤマザワの山澤進会長の亡き奥様が副会長であった。
扇千景先生は、その後、女性初の参議院議員議長となる。
旦那様は、中村扇雀氏であり、よく、母はお邪魔していた。
それだけ、山形市は、戦後はお隣の仙台市と、同じくらいの人口であったが、いつの間にか、当時の時点で、50万人と25万人と、ダブルスコアになっていた。
当時の金沢革新市政が四半世紀も続き、日本が最も経済的に伸びた時期に、山形市は間違いなく取り残されたのであった。
だから、当時の自由民主党のメンバーが、総掛かりで、山形市政の保守奪還に挑んだのである。
しかし、四半世紀の張り巡らされた大木の根は、そう簡単には、切り倒せず惜敗。
その後も合わせ、3回の山形市長選に臨み、3回落選した父・和夫。
結局、父の50代の10年間は、在野の人で無職であった。
後援会の方々が、米を持って来てくださり、野菜を取って来てくださる。
その力で、我が家は生かされていた。
鹿野道彦先生が、自由民主党を飛び出し、新党を作る。
父は、無所属になる。
遠藤利明氏は、日本新党から自由民主党に入党する。
そんな、国政の大きな流れの中に、山形市長選はあった。
自分が20代の頃の話。
父は、その後、県議会議員に史上最高得票数24000票で返り咲き、山形市長選挙には出ないつもりでいた。
自分も、30代の仲間たちや同級生が中心となり、株主50名から200万円を募り、ケーブルテレビ山形(現ダイバーシティメディア)を設立する。
自分が32歳の時である。
弟は、まだ高校を卒業した頃。
その7年後、相手方の後継者の佐藤山形市長が、市長室でお金のやりとりをしたと、秘書課長が逮捕され、なんとも摩訶不思議に、既に69歳の父に、白羽の矢が立つのである。
そして、様々な葛藤の中で4度目の挑戦、大差で当選する。
「清新、清潔」と訴えていた当時の革新市政の方々の秘書課長の逮捕は、とても違和感を覚えた。
そして、父が、成りたかった時にはなれず、他の方に譲ろうとした時に成れるという、人知の及ぶところとは違う、天の配剤を強く感じた瞬間でもあった。
父は、1期4年の任期を終えず、他界する。
オーヌマホテルを借り切った家族葬には、4000人を越える弔問者が来場下さった。
県民会館にて山形市が取り行った市民葬には、1300人の市民の弔問者が来場下さった。
その市民葬の最中に、金沢元山形市長が亡くなったのも、摩訶不思議である。
今日は、祥月命日。
14年になる。
朝から、元山形市の秘書課のメンバーや市川昭男前山形市長、山形商業高校女子バスケット部前監督の高橋仁先生、斉藤淳一元山形市議会議長など、多くの方々が、未だに弔問に来てくださる。
菩提寺の長源寺からは、所用の為に、達磨時の和尚様がお参りに来てくださる。
当然、母と、自分と弟の家族。
仏壇に手を合わせた。
人は亡くなっても、その意思や思いは、続いていくと信じたい。
父は、山形県バスケット協会の会長、東北バスケット協会の会長を亡くなるまで歴任した。
自分が、まさか、プロバスケットボールチームのパスラボ山形ワイヴァンズの社長をしているのも、まさに天の配剤。
ワイヴァンズは、今日、天に届くような勝ち方をしてくれた。
感謝である。
父の好きだった言葉は、「分甘共苦」と「一志如鉄」である。
自分は、「信なくば立たず」「義を見てせざるは、勇なきなり」である。
この思いを、脈々と、何代も伝えて行こうと思うのであった。