2011年3月11日、午後2時46分。
未曾有の大地震が、東北を襲う。
自分の母親の実家の宮城県女川町出島。
何百年も続いた漁師の町。
母親が産まれ、自分も小さい頃は、夏になると毎年滞在していた大好きな島であった。
津波が来て、島民が山の上に逃げる時に、叔母が町の家々を連写した中の1枚である。
そんなことが起きているとはつゆ知らず、山形市は停電と雪。
車のテレビで、ニュースを見る。
自分はその時、ケーブルテレビ山形の3階の応接室で、斉藤経営企画室長と打ち合わせをしていた。
高橋文夫社長が社長室にいらっしゃり、企画室には、三沢が臨月近くでいて、「床にお尻をつけて座っていろ!」と声をかけた。
一瞬、地震がおさまった時、エレベーターではなく、階段で全社員を会社前の広場に避難させた。
信号も止まり、ケーブルテレビ山形のシステムは、自家発電に切り替える。
停電が復旧した後のメンテナンスの為に、所定の役割を指示し、車で移動する。
ムービーオンでは、すでにお客様を誘導退避させておったが、場内は停電の為に真っ暗。
電気の施錠の為、こちらも止まり部隊を配置する。
とにかく、食糧や水の、懐中電灯やローソクなど、準備を徹底する。
母親は仙台市に行っておるが、きっと、彼女のことだから、どこかの体育館に避難しているだろうと、不思議と安心していた。
夕方、一瞬電話が通じ、「必ず迎えに行くから、近くの体育館に、動かずにみんなといて下さい!」といっしゅんで伝えた。
自宅では、弟家族とコンビニ弁当などで、夕食をとる。
その後、また、見廻りに出る。
山形県庁は、夜中も電気がついていた。
第一報が入って来た。
驚くばかりである。
旧ケーブルテレビ山形のスタッフと、県会議員の弟が、炊き出しを持って仙台市に入る。
おにぎり数百個や飲み物を持っていく。
帰りの車に、母親や、岩手県の女子大生を連れてくる。
旧ケーブルテレビ山形スタジオは、オール生中継に切り替え、鈴木淳予アナウンサーが、山形県や山形市、さらには東北各地や企業からの情報、喉痛情報、医療情報をリアルで流す。
ただ、ガソリンや生活用品だけは、一度流したら、そこの店へ視聴者が殺到した為に、放送を控えた。
昨日は、6年前のあの日とは、まるで違う青空が広がっている。
啐啄同機。
雛が、卵の硬い殻を破って産まれて来る時、中の雛がクチバシで殻を突くのと、親鳥が殻を外から突くのが、同機し合って、殻は割れ雛が産まれる事を言う。
テレビでは、6年後の同時刻、サイレンが鳴り、みんなが黙祷をする。
でも、あの日あの時に時間が止まり、心が凍りついた人にとっては、この6年という時間の長さは、どうなんだろうと考える。
喪失感が大きすぎる。
周囲の働きだけでは、殻は割れない。
当事者も、一歩踏み出さなければ…。
時間がかかっても、自分達は、繋がっていかなければならないのである。
自宅の中は、何も変わっていない。
でも、間違いなく、皆んなは6年間歳をとった。
6年間過ごしたのである。
人類の生誕からは、ほんの瞬きぐらいの時間。
されど、その瞬きに、刹那があり、真実が宿る。
無常無我、色即是空。
在って無く、無くて在る。
そんな、時空を超えた思いの中で、自分達は生きている。
日常の中に、真実はあるのだろう。
ささやかな願い。
来年も、その次の年も、3月11日は、青空であって欲しい。