1940年、江戸時代初期。
日本でも布教していたイエズス会の高名な宣教師フェレイラが捉えられ、激しいキリシタン弾圧に屈して、棄教(信仰を棄てる事)したという手紙が、ヴァリニャーノ神父の元に届けられる。
信じられない弟子のロドリゴとガルペは、日本に潜入する。
その後、彼等は、幕府の取締りを掻い潜りながら、布教活動を続ける。
しかし、幕府の取締りは厳しかった。
2人を支えたモキチは、信仰を最後まで棄てなかった為に処刑される。
キチジローは、あっさりと踏み絵を踏み、解放される。
信じた者が命を奪われ、信じなかった者が助かる。
なんと、信仰とは、理不尽で厳しい者なんだろうか?
この物語を通して幾度となく言われるのが、「主よ、あなたは何故黙ったままなのですか?」
キリストは、武器も戦車も刀持ち持つわけでもないし、取り調べる人間を、一掃してくれるわけでもない。
そういう物理的なチカラはないのである。
あくまで、主を多弁にするならば、自分の主体的な精神性に耳を傾けなければならないのであろう。
まさに、「客体の価値は、主体の価値人間を比例する」のである。
ロドリゴは、棄却した宣教師フェレイラ神父と会う。
そして、様々なことを悟っていくのである。
1976年に「タクシードライバー」で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した、マーティン・スコセッシ氏が、監督、脚本、製作を務める。
彼の命題は、「人間は本来、善なのが悪なのか?それとも両方なのか?」
原作を書いた遠藤周作さんは、弱者と強者の視点から、この本を書いたそうだ。
信じること、幸せであることは、どちらも主体の精神的な者であろう。
約2時間40分の映画だったが、とても面白かった。
自分は、2月22日(水)に、この映画を広告局の須貝優子局長と、秘書室の後藤義弘君と観た。
2人は、キリシタン虐待、弾圧のグロテスクなシーンに目を覆っていたが、自分は、外国人監督が、ここまで日本人を演出できるものなのだと、圧倒された。
そして、本質的なテーマに、心を揺さぶらされた。
たぶん答えはない映画なのだ…。
向き合うことで、生きるということの、本来の力を知ることができるのかもしれない。
そう思ったのである。