山形南高等学校の先輩、かつ、東海大学の先輩という方はそんなに多くはない。
ましてや、その後、相原先輩は、高橋和雄元山形県知事の青年部長を務め、自分の父や弟和武、現在の吉村美栄子知事、舟山やすえ参議院議員、梅津ようせい山形市長候補者などの支援の中心にいられた。
また、東海山形学園理事、東海大学同窓会元山形県支部長、山形県立山形南高等学校スポーツOB会副理事長、山形南高等学校サッカー部OB会長など、本業の材木関係以外でも、とても大きな影響力があり、偉大な人であった。
9月8日(木)午後2時、「セレモニーホール霞城」で、故 相原吉弘氏の告別式が執り行われた。
享年65歳。
9月3日(土)午後9時21分、あまりにも突然に、旅立たれてしまったのである。
翌日の、9月4日(日)の午後、その一週間前までは、笑顔で話されていた相原先輩と、予想もしなかった形で対面をした。
長男である、喪主の相原吉郎くんはじめ、奥様や長女のえりかさんも、気丈にされていたが、あまりの突然の逝去に、戸惑いと悲しみが込み上げていた。
お亡くなりになった原因は、心筋梗塞であったとのこと。
とても、悔しくて、悲しくて、残念でならない。
ご家族の皆さんは、どんなにお辛いか…言葉にできない。
今から3年前の、暑気払いでの相原先輩(右から二人目)である。
いつも、穏やかで笑っていられた。
今年の、東海大学山形支部の同窓会役員会(宝来寿司)である。
一番手前が相原先輩。
隣の佐藤正興先輩とは、いつも一緒だった。
今から5年前。
2011年の3月6日、自分が東海山形学園の理事になる時に、一緒に理事になられ、そこからは、東海大学山形高校の再生に向け、多くのことを教わったのである。
そして、自分が暫定理事長として、6月までの3ヶ月の任期であった為に、他の方へ理事長のバトンを渡そうとした時、相原先輩は、理事会の席上で「あなたのお父さんは、困難を前にした時、けして逃げる人ではなかった。大変な時こそ、先頭に立ち、向かっていった。逃げるな!」と、おっしゃって下さった。
その時、心の中に、覚悟が生まれたのである。
相原さんご自身も、いつも集団の中心、組織の先頭に立っておられた。
8月19日(金)、ここ数年の懸案であった東海大学山形高校全面改築工事の地鎮祭と安全祈願祭の時には、「理事長!やっとここまで来たなぁ。」と、誰よりも喜び、笑顔で声をかけてくれた。
また、亡くなられる1週間前の8月26日(金)は、亀松閣では、東海大学山形高校の、年に一度の理事会・評議員会の後の暑気払いを行ったが、その時は、とても楽しそうに、山形南高等学校サッカー部のOB会の話をしていらっしゃった。
相原先輩の葬儀の際に、自分が5人の親しき方々の先陣を切り、先輩に、万感の思いを込め、弔辞を読ませてもらった。
次世代を担う若者を、こよなく愛した方であり、私をはじめ、真っ直ぐに、誠実に、優しさをもって指導してくださる偉大な方であった。
生者必滅 会者常離は、人の世の習いとは言われるが、残念無念で一杯である。
これまでの、相原先輩からのご指導と優しさに、心から感謝を申し上げ、万感の思いを胸にお別れの言葉としたい。
合掌
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さようなら。相原先輩へ感謝を込めて。
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