以前の山形市は、同一人物が山形市長を28年間つとめ、膠着した既得権益、停滞した権力構造を作り上げ、その支配に誰もが異議を唱えられずに、山形市の活力は弱まり、発展は停止した。
全国都道府県の県都では日本最長記録であり、在任期間最長市長という、めちゃめちゃ風通しが悪い町になっていく。
山形市の商圏と、仙台市の商圏は、ほぼ同じだったが、28年の間に4倍以上の商圏の差ができてしまった。
その長期間、山形市長であった方を責めるつもりはない。
選挙で、その方を選び、起業する企業の割合が日本最下位の町になったのは、他ならぬ市民のマジョリティーの意思であったからである。
さらに、どんなに素晴らしい人でも、20年間も市長職にいたら、政治的感性と時代の波を読める力は衰えていくからである。
そんな山形にNOを突きつけ、山形を出ていった若者達は数えきれなかった。
そんな時、その方並びその後継者に、3回挑んだ人物がいる。
結局は惜敗だったが3回破れた。
これも、日本政治史では初のことである。
新しい時代の扉を開ける難しさを知った。
コテンパンな10数年であり、それまでは、どん底の下に、まだどん底があるとは知るよしもなかった。
初めての敗戦は、自分が26歳、父親が55歳の時である。
自分が30歳の時、12月31日に町中に貼られ、1月3日に撤収された父のポスターのコピーが、『今年は、今年も、今年こそ。』であった。
凄い機動力と人海戦術である。
大晦日の夜中に、山形市民の有志数千人が、ポスターを貼りまくっていたのだ。
しかし、その年の2回目のチャレンジでも破れる。
自分は、違うカタチで山形を良くして、活発化したいと、その2年後、32歳でケーブルテレビ山形を、多くの方々の協力により、創立したのである。
確か、父親が69歳の12月13日の夜、たまたま、自分は同級生の山形銀行の大舩氏(現天童支店長)と夕食をとっていた。
そこへ父からの電話。
現市長の秘書課長が、『市長室で大金のやり取りがあった』と、逮捕されそうだとのこと。
大舩氏も『すぐ帰れ!』と言ってくれて、家に戻る。
続々関係者が集まり、情報が行き来した。
3回戦い破れた当時とは、まるで山形市の状況が違っていた。
様々なことが、あったが、結局父は決断をし、69歳で、山形市長に大差で当選する。
県庁所在地の市長選挙、県都の市長選挙に、4度目の挑戦で当選したのも、日本政治史上初であった。
初の挑戦から14年が経っていた。
今でも当選が決まった選挙で、父が乾杯の音頭を自らがやったのを覚えている。
『山形市民、乾杯!』であった。
どんなにどん底にいても、自宅に毎日100回近い嫌がらせの電話がきても、自宅からボヤを出されても、…次の日の朝には、父の支援者の農家の方や商店の方々が、米、野菜、飲み物等を、次から次へ置いていってくれた。
ヤクルトも、10数年間、毎日届いた…会長達に感謝である。
感謝、感謝、感謝である。
支援いただいた方がいたからこそ、大袈裟ではなく生きてこれたのだ。
父は、就任後まもなく癌になり、一期を終えることなく他界した。
葬儀には4000人以上の方々が、集まってくださる。
父が教えてくれたこと。
『ネバーギブアップ』
『市民が主役』
『ひとりでは何も出来ない』
そんな思いが、ケーブルテレビ山形、ムービーオン、岩手ケーブルテレビジョン、東北ケーブルテレビネットワーク、パスラボ山形ワイヴァンズ、バーチャルシティやまがた、イノベーションデザイン、YMF山形国際ムービーフェスティバルなどに、受け継がれている。
『今年は、今年も、今年こそ。』
ケーブルテレビ山形のスタートも、波乱の幕開けで、資金が0であり、夢を実現する志と熱意にみんなが賭けてくれた。
だからこそ、開局20周年を迎える今年は、初心にもどり、自分もスタッフも全員で、恐れることなく、更なる進化をしていこうと思う。
今年もよろしくお願い申し上げます。
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今年は、今年も、今年こそ。
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