自分が生まれたのは、世田谷区三軒茶屋。
三軒茶屋産婦人科病院。
三軒茶屋幼稚園に、母が頼み込んで、それまで前例がなかった2歳で3歳児からの3年保育に入ったらしく、それが、現在のコミュニケーションの基礎を作ったのであろうと母は言う。
自分が生まれたのを見て、世田谷区若林の父親の姉夫妻が、一女はいたが、もうひとり子宝が欲しいと、生まれたのが、1年違いのノンチである。
昔から、紀子という名を、ノンチと言っていたし、今も変わらない。
自分が1月25日生まれ、ノンチが1年遅れの1月24日生まれである。
その後、母と自分は、仕事がある父を東京に置き、父のふるさと山形市に引っ越しである。
それからは、千歳幼稚園、第4小学校と、山形で暮らすが、その後も、ノンチと、4歳上の姉の孝子さん達と会えるだけで楽しかったのである。
東京の大学に行った時も、世田谷の伯父さん伯母さんには、お世話になりっぱなしだった。
この日は、ノンチと二人で、鍋をつつきながら、『ゆう膳』と『バラード』で、いろいろ話しをする。
彼女は、とても素敵な旦那さんから先立たれ、女手ひとつで、子ども達を育てあげた。
長女は、山形大学医学部を卒業し、現在は藤沢市で医者をやっている。
なにも未来に不安を持たなかった小学生の頃を思いだし、大笑いした。
あの頃は、自分達は親たちに守られ、永遠にその瞬間が続くと思っていたのだ。
歳を重ねると、ロストストーリーが多くなる。
伯父さんが亡くなり、自分の父親が亡くなり、伯母さんが亡くなり、ノンチの最愛の旦那さんも亡くなる…。
そんな中で、やっと大人同士の会話ができるようになるのである。
社会的な生き方を含めて、かなり話し合った。
しかし、彼女は強く逞しい女性である。
さすが我が妹と思った…。
失うものは年々多くなる。
だから自分は、いつも新しい出会い、新しい物語を求めている。
また、来春、ノンチと再会することを約束して別れたのである。
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鎌倉の妹分との再会。
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