10月21日(木)、ダイバーシティメディアの事業局打ち合わせの後、ムービーオンで映画を観ていた。
映画が始まって5分後、弟より電話がかかってきた。
午後9時を過ぎた頃である。
「ひょっとしたら、鹿野先生に何かあったかな…」との予感がした。
ここしばらく、体調が悪かったと聞いていた。
この約2年は、コロナ禍もあり、まったくお会いできなかったので、ご様子を聞き及ぶだけであった。
まさか、そこまでお悪かったとは、思ってもいなかったのである。
10月21日(木)、午後8時3分、鹿野道彦元衆議院議員は、波瀾万丈の人生の幕を閉じたのである。
「生者必滅 会者常離」は人の世の習いとは言え、残念無念であり、悔しくてしょうがない。
その2時間半後、病院から戻られたご遺体とお会いした時、万巻の思いが溢れ出し、偉大であった鹿野先生の葬儀を立派なものに力を尽くすのが恩返しと、心に決めたのであった。
今から5年前の2016年7月23日、鹿野先生が政界を引退され、「たまにはゆっくり話をしよう」と、山形の老舗料亭「亀松閣」で懇親会を行う。
「こういうのは、楽しいな!」と仰り、美味しい料理を食べながら、様々な思い出を話し合った。
この頃の鹿野先生は、後進の育成の為に「愛山塾」を立ち上げられ、未だに血気盛んであった。
そもそも、鹿野家と吉村家との繋がりはとても深く、自分の父の吉村和夫が、鹿野道彦先生の父の鹿野彦吉先生の秘書となったことが始まりである。
山形第二中学校(山形南高校)の時代、父を早くに亡くし、山形大学の現役学生の時に、鹿野彦吉先生に雇われた。
大学を卒業する頃には、筆頭秘書となり、その後東京の永田町と山形の二つの地域で鹿野彦吉先生を支えることとなる。
なので、自分は、秘書時代の東京生まれなのだ。
その頃の鹿野彦吉先生は、けして選挙は強くなく、5勝5敗のような状況で、秘書団と家族が一緒の鍋で引っ張りうどんを食べたと、父はよく話していた。
「みっちゃん!」「吉村さん」と呼び合う二人は、父が最期の時を迎えた18年前まで続いていた。
現職の山形市長で亡くなった父の葬儀委員長は、母と弟と相談し、鹿野道彦先生にお願いしたのである。
また、自分の結婚の仲人は、鹿野道彦夫妻である。
これは、父が鹿野道彦先生へお願いしたのである。
そんな幾重にも重なる関係が、鹿野家と吉村家との絆となったのである。
ご逝去の当日、21日の午後11時半、青林時のご住職が銅町の通夜会館に来られ、枕経をあげていただく。
翌日の22日の午後6時に入棺。
ご家族(奥様と3人のお子さん)とご親戚の他、愛山会の千歳貞治郎総括、愛山青年部会長の長瀬洋男元市議、弟の吉村和武県議、梅津庸成県議、鹿野道彦先生の秘書頭の渡辺元元市議会議長等、鹿野道彦門下生も参列される。
吉村美栄子知事や市川昭男元市長、舟山康江参議院議員らも顔を出された。
鹿野先生らしい遺影、そして戒名も院殿を賜る。
本日、10月23日午前11時に出棺、午後0時に荼毘に付す。
鹿野先生は、湯殿山神社の奉賛会会長で、自分が副会長であり、神社関係者の皆さんと記念撮影を行う。
まだまだ、心の整理はつかないが、時間をかけて、いろんな思い出を振り返ってみたいと思う。
一般会葬での献花は10月26日(火)午前10時より、葬儀は近親者にて午後2時からである。
喪主は長男、鹿野雄一氏。
葬儀委員長は、でん六の鈴木隆一社長。
副委員長は、千歳貞治郎氏と自分。
偉大なる政治家、鹿野道彦先生の御霊に、衷心より敬意と感謝と御礼を申し上げ、心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。