自分が結婚してから、今年の10月27日で37回目を数える。
その1年後の10月30日に、長男が誕生した。
あっという間に、あの時の父と母の位置に、自分と妻が立つとは、光陰矢の如しで時間が経つのは早い。
長男は、自分と妻の親からすれば初孫にあたり、両家から、とても可愛いがられて育った。
山形市立第八小学校と山形市立第一中学校では野球部に所属し、祖父と自分に続いて入学した山形県立山形南高校では3代続けての応援団として、コバルトの空に向かってエールを切ったのである。
そんな男子校での「文武両道」「師弟同行」の校風から、大学は政治学科か経済学科へ進むと周囲は思っていたが、彼が選択したのは美術大学であった。
多摩美術大学では、映画、デザイン、アニメーション、広告プロデュースなどを、心底学びたかったらしい。
社会人として弟子入りさせてもらったのは、放送作家の小山薫堂氏。
小山薫堂氏が率いるオレンジ&パートナーズ初の新採社員として、軽部氏や萩尾氏から育てられ、27歳までの5年間、ジュニアと呼ばれながら多くのことを学ばせてもらったのである。
入社1年目で、薫堂さんが原作と脚本を手がけた映画「おくりびと」が、米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞する瞬間に、薫堂氏らオレンジのメンバーと一緒に、ハリウッドでオスカーの受賞の瞬間を体験できたことは、彼の人生の宝物であるだろう。
山形に戻ると同時に、ケーブルテレビ山形の全社員ミーティングでプレゼンテーションをし、局部長会の判断により、メディア戦略局企画構想室室長の肩書を得た。
現在は、ダイバーシティメディアの常務メディア戦略局長として、「わたしの山形日和。」など各種プロモーションのプロマネージャー、ウェブデザイン、SNS映像制作、ホームページデザインと運用、PCRやAEDなどの医療系の展開、YMF山形国際ムービーフェスティバルのプロモーション、発掘!おもしろ東北人!などのイベント運営、山形ワイヴァンズなどのイメージ映像などを手がけている。
今春からは、ダイバーシティメディアの制作局の責任者も兼ねて、これからのマルチメディアの多様な、メディアミックスの戦略を担当する。
昨年の初夏、結婚をしたい女性がいると言われ、家族の食事会で紹介された。
明るさと笑顔が印象的で、かなり緊張されていたが、誠実で素直さの感情が真っ直ぐ行動に現れる、素敵な女性であった。
何よりも、2人でこの日まで寄り添いながら、多くの事を語り合い、理解しあって来たことが嬉しかった。
コロナ禍ということもあり、昨年秋に入籍をし、今年から一緒に暮らしている。
しかし、緊急事態宣言が、何度も発出され、結納のタイミングが延びてしまっていた。
場所は、老舗料亭の「亀松閣」
実は、この「亀松閣」の先々代が、自分の父の吉村和夫と山形大学の同級生であり、ボクシング部の仲間であった。
そんなご縁から、父と母の結婚披露宴は、「亀松閣」であった。
今から60年も前の話である。
自分と妻の結納も、この「亀松閣」で行われ、吉村家の慶事は、3代に渡ってご縁をいただいている。
先代の智美社長に続き、京都の「瓢亭」で修行が明けた娘さんが、この日も板長と一緒に板場に立ち、連綿と続くご縁の中で料理を作られたことに、感謝しかなかったのである。
20年も前に、ケーブルテレビ山形の番組の中で、幼き2人の娘さんたちが、「お父さんの様な料理人になる」「お母さんの様な女将さんになる」と話された夢が、今、現実になろうとしているのだ。
この日の為に、「亀松閣」の皆さんには、とても多くのお手間を取らせてしまい恐縮している。
女将さんは、アルコールが飲めない私や母の為に、ノンアルコールのシャンパンまで、準備してくださっていた。
新婦のお父さんや弟さん、自分の妻などには、美味しい山形県産酒を準備くださった。
コロナ禍での新たな第一歩であったが、いよいよ披露宴に向けて、本格的な準備に入っている。
今日も、パレスグランテールの武田靖子専務はじめスタッフの皆さんと打ち合わせをさせていただいた。
コロナ禍の中で、どのタイミングで、どの規模で、結婚披露宴ができるのかを模索中である。
ここ数日だけでも、ワクチン接種の進捗や、アルコールの有る無しなど、状況が大きく変化している。
窮屈な社会情勢の中ではあるが、2人が考えている「来てくださる方々一人一人への感謝の気持ちを伝えられる」披露宴になるように、願わずにはいられない。