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あれから9年…東日本大震災に思う。

2011年3月11日午後2時46分。

これまで体験したことのない大きな揺れだった。

ケーブルテレビ山形の3階フロア。
応接室で斉藤健企画室長(現在パスラボ常務)と話をしていた。
揺れに驚き、秘書室に繋がるドアを開け、秘書室スタッフの桜井、富樫、裕、後藤に声をかける。

社長室から、高橋文夫社長(当時は82歳)が、「大きいなぁ!今回は、まだ収まらないなぁ!」と言いながら出てくる。

自分は、出産間近の桜井朋花課長(現在ダイバーシティメディア秘書広報室長)を、床に座らせて安定させる。

揺れが収まった時点で、社内にいる社員全員に、エレベーターを使わず、階段で一階ロビーまで降りることを指示する。

そこからは、見たことのない光景を目の当たりにし、ガソリンなどの物資不足や関係者の安否確認等の激流に巻き込まれていく。

そして、福島第1原子力発電所の大事故による放射能汚染が、東北の地を覆っていく。



凄まじい出来事の連続であり、皆んなが何とか手を携えて歩いて来たのだ。

あれから9年が経つ。



2020年3月11日(水)。
シネマコンプレックスのムービーオンでは、新型コロナウイルスの対策の為、山形県生活衛生興行組合の緊急理事会が開催された。

あの時の政府の対応と、今の政府の対応が重なる。

疑問に答えて欲しいし、真実を語って欲しい。



山形県生活衛生同業組合の緊急理事会が終わり、午後2時46分を迎え、被災されお亡くなりになった方々へ黙祷をする。



生きている間に、あんな酷い光景を見ることを、予想した人はどれくらいいるだろうか。

信じられない光景ばかりが、テレビに映し出されるのだ。



数日後、秘書室の武田裕・後藤義裕の両名と宮城県名取市へ行く。

赤茶色の泥のような土が延々と続き、田畑を覆っていた。
ここまで、津波か飲み込んだ跡であろう。



東日本大震災が起こった当時は、停電の為、自宅や会社のテレビは見られなかった。

しかし、車のテレビでは、中継を見ることができた。
東北各地の様子が手に取るように分かるが、一方で、あまりにも衝撃的なシーンだけに、驚きと恐怖を持ったのを記憶している。



当時の旧ケーブルテレビ山形での泊まり込み部隊の面々。



電気を失ったムービーオン。
懐中電灯を持ち、スタッフは泊まりがけで設備点検をする。



この日、山形県庁は不夜城であった。
吉村美栄子知事は、就任して1年が経過した中で、未曾有の大災害と直面。

神町の山形空港を24時間開放し、アメリカ軍の「トモダチ作戦」の受け入れや、様々な物資の東北の入り口として機能させる。

当時の内閣には、山形出身の鹿野道彦農林水産大臣がいたのも、山形県としてはありがたかったし、様々な面で支えていただく。



翌日の新聞。
あまりの被害の大きさに愕然とした。

あれから9年。

まだ、心の時計の針が凍りつき、動かない方も多い。



母の実家の宮城県牡鹿郡女川町出島。
800人いた住民は、30人くらいしか住んでいない。
子どもは皆無である。

復興は、まだまだ不十分である。
いや、悔しいが、元には戻らないと思う。

地方の田舎の奥地のインフラは、復旧は難しいし、再構築はもっと難しい。


思いもかけない不可抗力の災害。
それによって、日常の生活は一変したのだ。

祖父母の写真や、先祖の写真、母の幼き頃からの家族の写真…全て失う。
思い出すらも奪っていくのだ。


あれから9年。

少しの変化したこと…それは、住んでいる人々かわ呼吸をしだしたということ。

ここで生きていく、生活していくことを決められたのであろう。

緊急避難的な生活ではなく、地に足をつけて生活しようとされているのだ。



あれから9年。

再生の時を迎えている。

その環境の中で、力強く、生き抜き出したのである。



昨日、母の義妹から、十三浜の志津川で取れたメカブ類。

さっそくいただき、とても美味しかった。

海の香りがしたのだ。

きっと、海が生き返った…そんな思いが溢れたのであった。


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