今年の8月20日で、父が亡くなってから16年が経ち、17回忌を迎える。
あっという間である。
父が亡くなった時、自分は42歳、弟は29歳。
その後、自分は、シネマコンプレックス・ムービーオンの建設と運営、岩手ケーブルテレビジョンの経営支援、YMF山形国際ムービーフェスティバルの開催、東北ケーブルテレビネットワークの設立、CDCコミュニティ・データ・センターの創設、モンテディオ山形の法人化、パスラボ山形ワイヴァンズの設立、東海大学山形高校の理事長就任など、様々な分野で山形県の活性化に寄与する立場を賜り、自分なりに全力を投じてきた。
父はそれらを何も見ず、何も知らずして、天にいるのだ。
しかし、どれもが、父が夢見た「山形を良くしたい!山形の人々を幸せにしたい!」という思いに通底しており、合わせて先祖から代々受け継がれたものだと思っている。
同様に、弟和武が、県議会議員になったことも、4期目に突入していることも、さらには、45歳にして第三子目の次男を授かることなど、知る由もなかったろう。
だから、自分は、尚更、弟の子ども達を、父の吉村和夫目線で見てしまうのだ。
父は何処にいようとも、どんなにか抱きしめたいと思うに違いないのだ。
現職の山形市長で逝去した父。
やっと4回目の山形市長選挙に当選し、これから夢を叶えようとしていた矢先だった。
三市二町の合併による県都山形大都市建設、50万商圏の創成、新幹線の地中化と東西地区一体化、地域通貨による中心商店街の活性化ナドナド…。
病気になってからは、和武の妻のお腹にいた孫の顔を見たいと、楽しみにしていたのだ。
父が亡くなって2週間後に生まれたのが、弟の長男好誠である。
自分の長男は、約4000人が参加してくださった父の葬儀の時、現職の山形南高校応援団長として、父をエールで送ってくれた。
父は、山形南高校の初代応援団長だったので、現職の応援団員達も来てくれた。
(後に、学生服を山形南高校応援団に寄付させて頂く。応援団長の学生服の裏には ‘寄贈・初代応援団長吉村和夫’ とある。
父の墓の前で、弟の和武とその長男好誠、自分と長男の和康。
その時に建立した墓である。
長現寺は、鳥居公や水野公の墓もあり、由緒正しい曹洞宗の寺院である。
元気で過ごしている母親と、妻も一緒に記念撮影。
毎年、この日は、長源寺のお参りの後に、山形グランドホテルでのランチ。
ガーリックステーキ丼やカレーライスを食べる。
クーラーが効いていて、涼めるのでとても良い!
その後、毎年、吉村の本家へお参りに行く。
吉村美栄子知事宅。
この日は、お袋も行く。
甥っ子が作った、クリームブリュレ…うまい!!
この趣味が意外だが、以前からスイーツづくりは名人だった。
父の兄、吉村敏夫も96歳で、一昨年の1月に天国に召された。
夜は、妻と2人で久しぶりに、三津屋本店で蕎麦を食べる。
自分は、冷やとろろ蕎麦。
妻は、天ざるである。
翌8月14日(水)は、妻の実家の墓参り。
曹洞宗・広福寺へ伺う。
本堂の脇道を、裏山へ登っていく。
裏山ひとつが全てお墓の、典型的な山の寺院。
結構、勾配があり、足にくる。
汗も吹き出る。
妻の祖父母、父母が眠る場所。
親戚のお墓も回ってお参りをする習わし。
アメリカのロサンゼルスから、義兄の新関徳次郎氏の長男峻が帰省していた。
彼の作ったショートムービーや、LAでの話は、とても興味深かった。
何よりも、彼の成長ぶりは驚いたのである。
外国での一人暮らしとは、ここまで変化をもたらすのか…?
将来が楽しみで、嬉しくなったのである。
山形の食のブランドを確立したご夫妻が、義兄の新関徳次郎氏と、義姉の里美さん。
義兄は、「大曽根餅つき保存会」の会長で、山ニ醤油の社長で「魔法の醤油」「つけつけだれ」の考案者。
義姉は、「さとみの漬け物講座企業組合」で、講演会や講座、さらには本の出版など手がけている。
さらに、最近は「味噌講座」の講師に、全国引っ張りダコである。
義妹は、この夏は帰省しないが、東京銀座で「山形田」という蕎麦屋を経営している。
今年で20周年…多くの著名人からも愛されている。
改めて、繋がっていることを認識し、そこに何重にも縁が重なっている意味を感じる。
以前、後藤恒裕前山形市教育長が仰っていたが、「先祖から続く縦糸と、今、同じ時を生きている人との横糸が交わった所に、自分が存在している。」
自分一人で、ここにいるのではなく、多くの人々の魂の繋がりが、「今」「ここ」を導き出してくれるのだろう。
それを、感じるのが、「お盆」なのである。