2011年3月11日午後2時46分。
斉藤健企画室長達と打ち合わせをしていた時、グラグラ来たが、いつもより大きくて少し驚ろく。
なかなか収まらない揺れに対して、ダイバーシティメディアの3階役員フロアで、当時の高橋文夫社長と斉藤健経営企画室長、桜井朋花主任、冨樫和香子職員と一緒にいた。
桜井朋花主任が妊娠中であり、「床に座って、安定させて!」と言って、フロアの床に座らせた記憶がある。
高橋文夫社長は、当時は82歳。
「次第に収まるから…。」と言われる。
しかし、収まらない揺れに、「長いな…。これは大変だ!」と顔がこわばったのだ。
揺れが収まったところで、余震が来る中、1階まで、みんなで階段を降りて行ったのである。
全社員が、会社の前の駐車場に出て、停電になったロビーを基地にして、情報を集めた。
自分は、雪がチラついてきて、車の移動中に、車のテレビやラジオで情報を収集する。
その時の女川の海は、鏡のような水面であったと、ダイバーシティメディアの取材班は写真を送ってくれる。
8年前の2011年3月11日の夜。
東京に出張していた笹原専務達から送られてきた、その夜の東京駅の様子。
笹原専務は、電車が全面運休の為、夜通し羽田空港まで歩いたのである。
その夜、ケーブルテレビ山形(ダイバーシティメディアの前身)の各部署の責任者達は、自家発電を使い、停電の復旧を待ち、ケーブルテレビのシステム再開や放送と通信の早期回復の準備をする。
ムービーオンも、映写機が停電の為ダウンしたので、復旧の為、数人のスタッフが泊まり込む。
その日の夜中の山形県庁。
全ての部署が動いていた。
自宅に戻ると、弟の家族も来ていた。
食事はコンビニのオニギリやパンなど。
この日、母親だけが仙台市へ出かけており、連絡がつかなかった。
しかし、必ずどこかの避難所に駆け込んでいると、自分には変な確信があった。
2011年3月12日、翌日の新聞各紙。
改めて、この地震の凄さに驚き、悲惨な状況を把握できた。
スタッフの後藤義裕君と、松田昌一監査役と、数人で、オニギリを数百個、ペットボトル数箱を持ち、仙台市の避難所へ届けに行く。
道もまだ整備されていない中、被災者にすぐ食事を運んだのであった。
ケーブルテレビ山形では、24時間の生放送を開始し、生活情報や被災情報をお伝えし、行政からのお知らせも、遅延なく行った。
当時の宮城県の状況。
誰1人として、あの日あの時あの時間、あんなにも突然に、天地が引き裂かれるような出来事が起こるとは思わなかっただろう。
あんなにも、悲しく取り返しのつかない出来事が起こるとは予測できなかった。
あまりの惨劇であり悲劇である、無慈悲の3月11日を、自分たちはどう迎えていいのか、まだ分からないし答えなんかはでないと思う。
ただ言えることは、あの日の失ったものを静かに思い出しながら、心から安寧に葬ること。
そして、それを大切に受容すること。
周囲を見渡し、優しく接すること。
そんなことしかできないのかもしれない。
実家や親戚や友人を、70歳を超えて失くした母親は、時々、実家のことを話す。
前を向こうとしている姿は胸が痛むが、優しい言葉は見つからない。
ただ聴くだけである。
そんな8年が過ぎた。
人生の中の、思いもよらない事件や事故や天変地異。
それを乗り越えるためには、やはり肩を寄せ合って温め合うことなのかもしれない。
8年間、ご尽力賜った多くの方々へ敬意と感謝を送ると共に、お亡くなりになった方々へ心より哀悼の意を捧げたい。
合掌。