時の流れは早いと、50歳を過ぎて改めて感じ、55歳を過ぎると人生の限界を実感するのは、自分だけではないだろう。
彼は、山交グループの取締役になっている為に、ヤマコーの平井社長はじめ、山交グループの幹部の皆さんが揃われていて、さすが統率のとれた会社だと感じた。
鈴木セキさん、満93歳、享年94歳である。
修氏の親父さんが亡くなった時は、葬儀に参列できず、彼のご自宅へお参りに行った。
もう10年以上も前のこと。
不謹慎ながら、昔の話題で、奥様も含めて、皆んなで夜中まで笑いっぱなしだった。
以前、ムービーオンで働いていた修の娘さんは、結婚されていた。
修と奥さんが結婚されたのが、ついこの前だったような気がしているが、もう子どもの結婚を迎える歳でありであり、親を送り出す年代であるのだ。
時の流れは速い。
昨日7月28日(土)の葬儀の際、修の母上の遺影に手を合わせると共に、自分たちの同窓生の仲間達の横顔を見ながら、そんな事を思いながら、導師様の「仏、法、僧の三宝に帰依する」話を聞いていた。
彼は、山交グループの取締役になっている為に、ヤマコーの平井社長はじめ、山交グループの幹部の皆さんが揃われていて、さすが統率のとれた会社だと感じた。
修氏も、お母さんに面目が立っただろう。
上山市から山形南高校に入学してきた弁天のキカズの修、西川町からやって来た短ランの国井、天童市からやってきた腕っぷしが強い野口、尾花沢の田舎番長の押切(故人)、山形三中から来た大人だと思っていた藤田とアフロヘアーの金子、付属中から来た山川、山形一中からは自分と宮田。
すでに1年生の頃から、これほど楽しい事はないくらい、毎日が原色に輝いていた。
ヤンチャなメンバーが肩を寄せ合い、粋がり、いつも一緒だった。
喫茶店の「こけし」「チェック」「キングスアーム」「フランセ」は、いつも仲間が集まる場所。
他校のヤンチャな仲間も集まっていた。
ひょっとすると、そんなアウトサイダーの場所で、コミュニケーション能力や、サービス業の極意を身につけた人が多いかもしれない。
東京の大学に行っても、その仲間意識は変わらず、様々な場所で、山形弁丸出しの標準語っぽい言葉で、笑いを取っていた。
その後、彼はパラダイスロッジなど、蔵王山の主のように山での生活が長くなる。
自分たちの仲間は、普段はアウトサイダーだったが、仕事となると誰にも負けない気迫があった。
あの頃の、思い出が強いせいか、あれから数十年の時が経っているのに、その感覚があまりなく、随所随所に衰えは感じるが、気持ちだけは高校の放課後のシーンや、東京での夜中の街で過ごしたシーンなど、そんなものだけしか蘇って来ない。
彼の娘が生まれた時、ご自宅へ娘の顔を見に行ったこともあった。
メランコリーになっているわけでもなく、落ち込んでいるわけでもない。
きっとこれが人生なのだろうと、最近感じる。
だから、大切なものを見極めたいし、後悔はしたくないのだ。
たった一度の人生なのだから…。
とっても温かい修のお母上、鈴木セキ様のご冥福をお祈り申し上げます。
これまで、大変お世話になりました。
天国から、修氏の行く末を見守っていてください。
合掌。