義母が亡くなったのが昨年の夏。
昨年の大晦日は、義母がもういない古館の家に行くのが、心に落ちていなかった。
無機質さや無常さの虚無感が、心をまだ占めていたからだろう。
自分ですらそうなのだから、義兄、義姉、そして妻などは、計り知れない気持ちであったのかもしれない。
あれから一年が経ち、2度目の大晦日を迎えた。
ちょうどお昼時、食卓の上には、義兄が餅つきをした餅が並ぶ。
義兄の新関徳次郎氏は、大曽根餅つき保存会の会長、山形県グリーンツーリズム協議会の会長、前山形県PTA連合会長、元商工会議所青年部会長などを歴任。
その餅つきのプロがついた餅。
毎年、年末のこの日の餅は、特に美味しい。
幻の餅米の「奥白玉」である。
そして、雑煮。
ずんだ餅(ぬた餅)。
義母がいた頃の田舎料理が並ぶ。
黒豆も、数の子豆も、カラガイなども。
そして、漬物は、義姉の「さとみの漬物口座」の里美先生が作ったもの。
田舎料理は健在である。
昨年は寂しさが、みんなの心の多くを覆っていたような気がした…。
でも、今年は、すぐそこに義母さんがいるような気がした。
父が亡くなって15年が経つが、やはり今は、すぐそこにいるような気がしている。
それに似ているのだ。
生者必滅 会者常離
諸行無常の刹那の世界
きっと世の中の真理はそうなのだろう。
でも、自分の心の受け取り方は変化して行く。
日々進化しているのだ。
だから、幽明境を異にしても、心の中には境はなくなっていく、
いつも、大切な人たちは側にいる。
生きていても、天国に行ってもである。
そんな時間を過ごした大晦日の昼であった。
外に出る。
青空が広がる。
仏教では、雲ひとつない空を「廓然…かくねん・かくぜん」と言う。
「わだかまりがなく、心が晴れわたる」状態。
何千回も通った、古館からの帰る道。
青い空、山には雪が…。
この風景を、2017年の最後の日に見ることができて良かった。
2018年の初頭にあたり、どんなに悲しいことや、辛いことがあっても、じっくりと、ゆっくりと、少しずつ時間をかけて受容していけば、どんなことでも乗り越えるかもしれない。
そんなことを学んだ、年越しの日であった。