9月24日(日)、黒田吉隆君達が、自宅に遊びに来てくれた。
十数年前、彼がまだ10代の時、東南アジア初のレッドブルのF1トライアルドライバーとして、世界の10人程度の中に選ばれたのであった。
その時、初めて黒田吉隆君と出会った。
幼い頃から少林寺拳法を、自分のいとこ(山形県の吉村美栄子知事の亡き夫の吉村和彦弁護士)から兄弟で習い、和彦氏の子息展彦とは組手をしていた少年であった。
和彦氏亡き後、カートに没頭し、全国的にも頭角を現していく。
そして、高校を卒業した頃、当時F1に、2チームを持っていたレッドブルから声がかかり、トライアウトを受け、合格しレッドブルのメンバーとなる。
当時の彼を知る方々は、吉隆はウェットが強い。
ブレーキングも、一拍他のレーサーより遅い。
その為、危険であるが、速い!
…そんなことを言われていた。
その命知らずのブレーキングの遅さが、勝負師の持つ資質であると確信した。
ギラギラした目を持つ若者であった。
単身、ヨーロッパを渡り歩き、命を賭けた戦いをするのである。
様々な、ご縁から、当時の「黒田吉隆支援の会」の初代会長に、自分が就いたと記憶している。
さらに、当時のケーブルテレビ山形の深夜枠で、彼の出ていたレースを全試合、リアルタイムではないが、1年くらいの間、深夜枠で放送していた。
そんな、デンジャラスな人生を歩んだ黒田吉隆君が、レーサーを引退すると挨拶に来てくれたのは約2年前。
ちょうど10年くらいのレーサー人生だったのであったが、よく卒業を決意したなと感心した。
英語もできるし、世界中どこにでも単独行動できるだけに、グローバルなビジネスマンとして、活躍している。
その黒田吉隆君が、遊びに来てくれた。
次は、世界で最速のスポーツをしてきた精神力と意気込みを持って、ビジネスの世界で、頑張って欲しいと思うのである。