今日の春分の日に、東日本大震災の時、石巻市から避難してきた従妹達が、約2年の時を経て、石巻市へもどる。
3月16日の土曜日、焼肉『丸源』にて、お別れ会を行った。
母と弟家族と従妹の恵子の家族、母のスタッフの柏倉さんや、スタッフ工藤も同席した。
弟と従妹の恵子である。
自分の母の実家は、宮城県牡鹿郡女川町出島である。
母はそこの、中心的な家の長女で、島では唯一、米や薬や酒や野菜など、小さな何でも屋さんであり、特定郵便局や、船の離発着も受け持っていた。
恵子の父親である自分の叔父宏も、その『木村商店』を継承したが、8年前に、帰らぬ人となった。
その妻の叔母洋子は、1度恵子達と山形で暮らしたが、約1000世帯から80世帯に減った出島の住人達と、出島の高台の仮説住宅に一人で住んでいる。
恵子の6年生の娘と、弟の2歳の娘だが、恵子には小学1年生の息子もいて、今は、母ひとり子ども二人の三人家族で山形で暮らしていた。
あの津波の時、二人の子どもを抱えて高台の小学校まで走り続け、すぐ後ろに逃げ遅れた子どもや親達が、飲み込まれていった。
数秒の差で生きたのである。
山形に住み、介護の資格もとり、定住するのかな?と思っていた矢先だった。
『何故?何故石巻市に戻るの?職も決まっていないのに!』と自分が言うと。
「まずは長女が中学生になること。あと、実は子どもがいるから元気に明るくしているが、自分も立ち直っていないんです…。」と恵子。
それを聞いた時に、石巻市のみんなと一緒に、泣き笑いしたいという彼女の思いが直ぐに解った。
苦しいかもしれないが、みんなと同じ苦しみを共有し、すこし再生した街の出来事を一緒に喜びたいと、とても澄んだ、けど力強い目で、自分を見つめる。
また、自分が山形で暮らしながら所得した、介護の資格を、宮城県の高齢者に使いたいとも言っていた。
自分が、どれだけ、恵子の父親の宏叔父さんからお世話になったのかを伝え、「いつでも戻ってこい!」と送り出した。
偶然だが、この日、出島の女川町立の中学校と小学校が閉校式を行い、島は賑やかだったそうである。
未来の子ども達の為にも、もう人踏ん張り、大人達の仕事が残っているのだろう。
食事後、母は、恵子の家族を、ムービーオンやまがたに連れていき、映画をみんなで観たそうである。
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石巻市へ戻った従妹家族☆
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