ついさっきまで日常にいた人が、亡くなった瞬間から過去の人になってしまう。
そんなことは何度も経験してきたし、当たり前であると解っている。
でも、やはり辛く悲しい。
人生とは、なんて儚いんだと、やり場のない怒りすら覚える。
特に、類い稀な資質と、無限の可能性を持つ若者であればなおのことである。
本日、平成27年11月3日(火)午後2時より、故 福島隆之氏の葬儀に参列した。
彼の人生の最期の4年数ヶ月は、壮絶であり、言葉を失うくらいの病状であったはずである。
仲間たちや人々と関わることや、愛すべき店を活かしていくことで、ありえない明るさとエネルギーを、呼び起こして行った。
初めて会った人は、彼が病であるとは思わなかったに違いない。
それほど彼は輝いていた☆
しかし、少しずつ、無二の親友の弟の家で、毛布をかぶり、ただ静かにしていた時間が増えていったのである。
11月1日午前7時ころ、福島隆之氏は、天国に召された。
ベッドに横にならず座った状態で、前日に佐賀県から来たお母さんから体を擦られながら逝ったとのこと。
ぎりぎりまで、生きようとして闘っていたのである。
福島隆之氏が亡くなる1週間前に病院で撮影した弟との写真。
11月1日の夜に、弟がフェイスブックにアップしていた。
「年年歳歳 花あい似たり 歳歳年年
人同じからず」という劉延芝の故事が添えてあった。
…洛陽城の桃の花を楽しんだ人達は既に亡くなり、この花を見る人々は毎年変わっていく…
まさに、『生者必滅 会者常離』は人の世の習いであり、『諸行無常』を突き付けられる。
今年の9月1日より、彼は治療に専念するというので、その合間に、在宅でチケットを販売してもらう、ムービーオンの営業部長に就任した。
毎月1日に、グループ会社の全社員ミーティングがあるため、11月も参加すると聞いていて、治療薬とバランスがとれてきたのかな…と、とても楽しみにしていた。
1年前、吉村美栄子山形県知事の会にて、鈴木隆一でん六社長と一緒に。
3年前の会議の後で。
最初の手術から、復活した頃の福島。
福島が、通っていたスポーツジムのエスポートの東海林社長と専務から、お見舞いをいただいて…。(弟の自宅にて)
福島との最期の写真となった、今年9月6日(日)の、山形市長選挙の、梅津ようせい氏の出陣式で、えきでんの庄司と。
9月10日の、ビッグウイングには、病院から抜け出して駆けつけてくれた…彼の元気な姿を見たのは、それが最後になった。
多くの人達と関わりを持ち、仲間たちと過ごす事が大好きだった彼。
多店舗経営の相談を受けたこともあったし、寝られないくらい悩んだ日もあったが、彼は、いつも坂本龍馬と同じように、前に進むことで、問題を解決していった。
13歳下の弟の友達として紹介されたのは、20年も前のこと。
いつの間にか、年下なのに、人間としてリスペクトできる男になっていた。
葬儀委員長を努めた弟の、葬送の辞には涙した。
福島の、山形に来てから亡くなるまでの、生き抜いた23年の軌跡を、共に歩んだ時間を、しっかり参列者や佐賀県からいらしたご両親と二人の兄へ、叙情的に伝わった。
青年会議所元理事長の佐藤靖之社長、東北芸術工科大学の木原芸術学部長、そして、日本スタッフサービスの代表の横山さんと従業員の皆さんが祭壇に上がり、彼へ感謝の意を表し、未来への誓いをたてていた。
昨日のお通夜には、200人くらいは来ただろうか…。
今日の葬儀は、山形市のセレモニーホールが満杯で、3階まで人が溢れた。
これを『人徳』と呼ぶ。
人を愛した分だけ、愛される人柄である。
吉村山形県知事、市川前山形市長、鹿野元農林水産大臣、東北芸術工科大学からは、古沢理事長、徳山副理事長、根岸学長等が参列されていた。
葬儀の会場入口には、三枚の写真。
おそばに…の写真があった。
昨日の自分のアメーバブログのアクセス数は、4999アクセスだった。
普段は2000から3000アクセス。
1番アクセスが多かった記事は、福島の『おそばに』へ開店祝いに行った、2013年の9月2日の記事。
福島の大きさを感じた現象である。
葬儀の最後に、在りし日の映像が流れた…。
ラストの写真は、あさひ町の自分の親父の家…ワインを福島が飲んでいた。
福島!
あの頃が、最高に良かったよな!
できることなら戻りたい…そう思う。
しかし、現実は現実として、少しずつ受けとめていかなければならない。
残念無念であるが、風にでも、光にでもなって、いつもどこかにいて、君の仲間たちを見守ってやって欲しい。
合掌
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いつもどこかに…。
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